モクジ

◆ 短編 --- 雪に消ゆ ◆

 パラディーススに住む子供は、本物の空を見たことがない。本物の風を感じたことがない。本物の雨を浴びたことも、本物の雪に触れたこともない。

 彼らは狭い町の中にある学校へ行き、大人になると街の中にある会社で働き、そして死んでいく。








 凍えそうな寒い日、街の隅っこにある倉庫街で学校帰りの子供たちが騒いでいた。

「雪奈のバーカ、のろまぁ!」
「あんたが満点取るなんて百年早いのよ!」
「返して、返して!」

 六人ほどいる小さな子供たちは、雪奈と呼ばれた少女を囲んで小突きまわしていた。一人の少年の手には、雪奈の大切なお守りが握られている。雪奈は必死で手を伸ばすが、小学校一年生になったばかりの彼女は同世代の子供と比べて一際背が低いため、少年が手を高く上げてしまえば全く背が届かなかった。

「ほら、浩二パス!」
「ナイピッチ!」

 お守りがあっちへこっちへ投げられると、雪奈もそれを慌てて追いかける。しかし子供たちの動きは素早く、暴力なんてもってのほかと躾けられた雪奈は輪の中で右往左往することしかできなかった。雪奈は頬を真っ赤に染める。

「雪奈間抜けぇー」
「バーカバーカ!」
「返して、返してよぉ!」

 子供たちは雪奈が必死になる様子が面白いのだろう、げらげらと笑いながら雪奈のお守りをキャッチボールのように投げ合う。手袋をしていてもどうしてなかなか、正確なコントロールだった。

 その日雪奈がいじめられたのは、彼女がクラスで唯一テストで満点を取ったからだった。といっても、いじめる理由なんてなんでもいい。大事なのは、いじめっ子達が目の前の玩具でどう遊ぶかだ。そこに雪奈も同じ人間なのだという意識はない。いじめている彼らが楽しければなんだっていいのだ。

 やがてそうして十分も遊んでいただろうか。
 そろそろ飽きてきた子供の一人が、雪奈のお守りを僅かに入口の戸が開いている倉庫の中へ投げ入れた。

「あぁっ!」

 雪奈は悲しそうな悲鳴を上げた。子供たちは再び大声で笑う。
 人気のない倉庫街では、助けを求めることも難しそうだった。

「ほら、取りに行けよ雪奈」
「そうよそうよ」

 子供たちは面白がってはやし立てる。

 鉄でできた横にスライドするタイプの大きな戸は細く開いている。非常に重そうなその戸は、開けることはできなくとも体の小さな雪奈であればなんとかすり抜けられそうだった。

 雪奈はいじめっ子達を見る。
 このままでは帰してくれなさそうな雰囲気を察し、彼女は背負っていた大きなランドセルを下ろすと、意を決して扉の間へと体を滑り込ませた。



 倉庫の中は見慣れない車が二台停まっていた。車体は真っ赤に塗られていて、郵便配達の車みたいだと雪奈は思った。
 倉庫の天井は意外に低く、三メートル少々しかないだろう。屋内だがコンクリートの打ちっぱなしの床のせいか冷え冷えとしていて、雪奈の吐く息も白くなる。

 お守りは車の下にあった。雪奈は冷たい床に手をつくと、お守りに向かって手を伸ばす。
 なんとかお守りには手が届き、無事掌の中にそれを取り戻した雪奈はほっと胸をなでおろしたのだが、

「いっせーのーで!」

 シャッターの外側から声がしたかと思うと、ゴロゴロと音を立てて重い鉄の戸が動き出し、ガンと大きな音を閉まった。倉庫の中が一気に暗くなる。

「えっ!?」

 雪奈は驚いて入口のところに戻る。が、隙間なく締まった戸は、雪奈の力では到底動かせそうになかった。

「ねえ、出してよ!」

 雪奈は声を張り上げて戸を叩くが、返ってきたのは嘲笑だけだった。

「ずっとそこにいろよ」
「夜になったらお化けが出てくるかもな!」

 口々に罵倒を吐くと、子供たちの声は遠ざかっていく。

「ねえ、待ってよ! お願い、ここから出してよ!」

 しかし悲痛な叫びもむなしく、しばらくすると辺りから人の気配が消えた。
 雪奈はその場にへたり込む。ぐずぐずと鼻水をすすって泣きじゃくった。

「出してよ、出してよぉ……」

 しかしいつまで経っても誰かが戻ってくる気配も、人が通りかかる気配もない。

 やがて泣きやんだ雪奈は、倉庫の中の寒さに身震いをした。
 携帯電話はランドセルの中だ。ランドセルを外に置いてきてしまったため、電話で親に助けを呼ぶこともできない。
 雪奈はのろのろと立ち上がると、他に出口はないのかと倉庫の中を彷徨い始めた。


 改めて調べてみると、変わった倉庫だった。
 広めの倉庫内には中心近くに車が二台、五メートルほど間をおいて駐車してある。手入れされているのか車体はピカピカだが、よく見てみても雪奈が見たことのない車だった。両方の壁際に並んでいる機械もよく分からないものだし、採光の窓となるのは天井近くにあるハメ殺しの丸窓一つだけしかない。雪奈の身長では到底届かない高さだし、そもそも開かない作りのため出口にはならなさそうだ。

 唯一出口らしいものと言えば、雪奈が入ってきたのとはちょうど反対の方向にある厳重そうなシャッターと、スチールのステップの先についた扉だけだった。
 雪奈が調べた感じ、シャッターは電動式らしく、スイッチがどこにあるのかはさっぱり分からなかった。
 頼みの綱である扉に近付くと、何やら文字の書いたポスターが貼ってあった。雪奈は黄色いポスターに黒い字で書かれた文字を読んでみた。  
 子供の雪奈には難しい漢字がづらづらと書かれていたが、一か所だけ彼女にも読める文字があった。

「……で、ぐち? でぐち……出口!」

 意味を理解した雪奈は顔を輝かせた。
 彼女はメタリックな扉のドアノブに手をかける。
 少々固いドアノブだったが、彼女にもなんとか開けることができた。体全体を使って押しあけて、雪奈は扉をくぐる。

 常ならば電子ロックが掛っているはずの扉には、『危険、電子施錠機能故障中』という張り紙が貼ってあったが、幼い雪奈には読むことができなかった。



 扉の先は不思議な空間だった。雪奈が入った途端、部屋の中は白い明かりで満たされる。金属でできた六角形の長細い空間に、金網の橋が掛けられていた。
 カシャカシャと音を立てながら、雪奈は橋を恐る恐る渡っていく。
 その先には五角形の部屋があった。部屋の中心にはベンチが置いてあり、雪奈が入ってきた壁と、右斜め前にあるどこかへ続く通路がある壁以外には白いもこもことした宇宙服のようなものが立てかけてあった。

「不思議な部屋……秘密基地みたい」

 雪奈はびくびくしながらも宇宙服に触れてみる。思いのほかごわついた感触のそれは、何のための服なのかいまいち分からなかった。

 雪奈は先に進む。

 先ほどと同じような通路を進むと、今度は正方形の部屋に出た。彼女が部屋に入ると部屋の入口が閉まり、かちりと音がして、体が押さえつけられるような感覚がした。
 エレベーターだ、と雪奈は直感する。

 長い時間エレベーターは上昇していた。やがて、先ほどと同じようなかちりという音がすると、エレベーターのドアが開いた。通路の先に、扉が一つ見える。
 先ほどとは比べ物にならない寒波が彼女を襲った。

 雪奈は慌ててエレベーターから出ると、目の前にあった扉を押しあけた。

 と、

「わぁっ!」

 彼女は歓声を上げた。

 目の前に広がるのは、真っ白な世界だった。

 空からは白い物がしんしんと降り注ぎ、地面に降り積もっていく。
 落ちてくるそれを、雪奈は手で受け止めた。手袋の上に落ちたそれは、ゆっくりと溶けて消えていく。

 彼女は両親からよく聞かされている話を思い出した。

「雪だ!」

 雪奈の名前にあるものと同じ雪。
 空から降る、白い結晶。
 両親はその神秘的な美しさを、雪奈によく語ってくれていた。

 雪奈は寒さも忘れ歓声を上げて雪原の中に飛び込んでいった。


 雪の中に思い切り倒れ込む。パウダースノーは雪奈の体を優しく受け止めてくれた。全然痛くない。雪奈はごろごろと雪の中を転がった。

 空も地面も真っ白だ。雪奈も真っ白だ。

 服に雪がついて真っ白になるのが楽しくて、雪奈は雪をすくうと頭上から思い切りかぶった。

 ここでは先ほどあった嫌なことを全部忘れられそうだった。

 そうして雪の中で転げまわっていた雪奈は、祖母がいつか子守唄代わりに聞かせてくれていた話を思い出した。  

「雪うさぎと雪だるま作ろう!」

 楽しげに宣言すると、彼女は制作に着手した。

 まずは雪うさぎだ。

 きゅっきゅっと握ってみるが、雪はさらさらと崩れてしまって上手く固まらなかった。雪奈はぎゅっと顔をしかめる。

 手袋をしているからかもしれない。そう判断した雪奈は、少し迷った末に思い切って手袋を脱いでしまった。

 一杯運動したせいか、思った以上に寒さは感じなかった。雪奈は嬉しくなって、雪をぎゅっと握る。

 すると今度はうまい具合に雪が固まった。雪奈はにっこり笑う。

 雪うさぎには葉っぱがいると気付いた雪奈は、辺りを見渡した。しかし真っ白な雪に覆われた周囲には木は見えず、雪奈は雪うさぎを作ることを諦めた。

「雪だるまさんだね」

 誰に語るでもなく呟くと、雪奈は雪だるま作りに没頭し出した。

 ややもすると、小さな雪だるまが一体完成した。雪奈は満足げに手をはたくが、白い雪景色の中では、飾りも何もない真っ白な雪だるまはすぐに埋もれてしまいそうだった。

「もっと雪がカラフルになればいいのに」

 頬を膨らませながら雪奈は二体目の雪だるま作りに精を出す。

 ふと気がつけば、雪奈の雪だるまは桃色になっていた。

「わ、可愛い!」

 ピンクの雪だるまは、雪奈が表面をポンポンと叩けば叩くほど赤っぽく染まっていく。白い雪だるまと並べると、仲のよい男の子と女の子の雪だるまのようだ。

 雪奈は満面の笑みでそれを眺めている。

 と、向こうから大きな雪だるまが走ってきた。雪奈はびっくりして目を丸くした。

「雪だるまさんたちも一緒に遊ぶの?」

 雪奈が声をかけると、何人もいる雪だるまはわらわらと雪奈を囲んだ。

 どこからか、雪奈の名前を呼ぶ両親の声も聞こえてきた。

「あ、お父さんとお母さん、迎えに来てくれたんだ!」

 雪奈は幸せな気持ちで笑った。




 ***



「雪奈! 雪奈、しっかりして!」
「お母さん、触れないでください! お嬢さんの体が崩れてしまいます!」
「雪奈! お父さんだよ、分かるか雪奈ぁ!」
「急いで病院へ!」

 真っ白な雪原で、皮膚が溶けて筋組織まで見えている状態となった少女に、その両親は半狂乱となって叫んでいた。少女のぐずぐずになった体から血がぶつぶつと噴き出している。少女を抱きしめようとする母親を、救急隊員が必死に止めていた。



 地球の氷河期が始まったのと、史上最悪の化学事故が起こったのはほぼ同時だった。

 化学工場での爆発によって拡散した危険な薬品は気流に乗り、雪となって全世界を覆った。
 接触すれば生物の皮膚を溶かし、摂取すれば生物の脳を破壊する魔の雪。
 人類を脅かす脅威から逃れるべく、人々は地下都市パラディーススを作りだし、そこへ移住した。

 地上は人類にとって猛毒が吹き荒れる地獄だった。防護服を身につけなければ、ものの数十分で死に至る。防護服をつけてですら、長時間の滞在は体をむしばんだ。
 地上へは少女が迷い込んだ緊急調査用出口とその他僅かな道以外はなく、その道ですらここ十数年は使われることがなかった。
 
 雪奈が迷い込んだ場所は普段は閉め切られているのだが、その日はたまたま設備点検のために鍵が開いていた。
 そして設備点検の折に地上へ続く通路の電子ロックが壊れていることが判明し、修理の業者を呼んでいる最中だった。
 修理の業者が道に迷い、管理者がそれを迎えに行くためにほんのわずかな時間に持ち場を離れた時に、小学生たちが雪奈をあそこへ閉じ込めた。

 いくつもの不幸が重なって少女が緊急調査用出口を使ってしまったと分かったのは、全てが手遅れとなった後だった。



「ゆぎだづばだん……」

 瞼が溶け、露出した眼球ですら溶け始めている少女は、防護服の人間に何かを言ったようだったが、それは言葉としては彼らの耳に届かなかった。
 露出している顔は元より、全身が溶けだしているのだろう、少女の服は全身真っ赤に染まっている。
 直前まで少女が作っていたらしい雪だるまは、片方が少女自身の血によって真っ赤に染まっていた。

 少女を病院へと救急隊員が担架に乗せようとしたが、少女の手首がぼとりと千切れ落ち、雪に沈んだ。
 もう手遅れだとその場にいた誰もが悟った。

「雪奈……雪奈……! どうして、こんな!」

 雪奈の両親は地表の雪を無毒化する研究をする研究者だった。自然が悪いわけではない、人間が悪いのだと知っていたが、それでも今は雪を恨まずにはいられない。


 母親が雪の中に泣き崩れた。父親も咆哮を上げるように泣き叫んでいる。

 静かに降り積もる雪に、その慟哭は吸いこまれていった。
モクジ
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