王都の外れには、世界一の素材屋という看板を出した店がある。
小ぢんまりとしたその店は知る人ぞ知る名店であり、ここに頼めば魔法、錬金術、料理、工芸、その他あらゆる分野で手に入らない素材はないと言われている。
さて、その素材屋には店主である恭一の他に二名の従業員がいる。
一名は店主の自称弟子であり、人猫族の少年だ。雑用や店番などをこなす。名前はルッツという。
もう一人はこの店の経理を担当している穏やかな青年で、名前をトニという。
さて、これはトニが素材屋に雇われる前のお話。
***
それは、素材屋としてあちこちを放浪していた恭一が必要な資金を貯め、初めて店を構えた年の秋のことだった。
王都の外れにある素材屋の店内にて、恭一は役所から来た手紙を前に頭をかきむしっていた。
「ねーよ、無理だよ、ふざけんなっ!」
と叫ぶと、恭一は持っていた手紙を叩きつけるようにしてカウンターの上に置いた。
「マスター、どうされたんですか?」
掃除をしていたルッツが一瞬びくりとして飛び上がると、心配そうな顔で振り返った。
恭一はこめかみを押さえながら言う。
「役所から決算についての通達が来た」
「……それがどうかしたんですか?」
ルッツはきょとんとした顔をする。
店を構えるにも色々手続きは必要である。役所への申請ももちろん必要だ。恭一が王都に店を構える際にも、大わらわになりながらも諸々の手続きを済ませた。
現在恭一が拠点を据えた国は、店を構え一定以上の金額の商売をしている人間は年末に決算書類を提出し、監査をクリアする必要があった。日本で言うところの青色申告である。決算期限までは随分と遠いが、店を出して初年度ということもあって早めにお知らせがきたのだった。
恭一は乾いた笑みを漏らす。
「聞いて驚け。お上がおっしゃることにはだな、『決算は規定の書類に必要事項を記入し、資料を添付すること。ただし、書類作成に魔法を使用したもの、魔力を帯びたものは不受理とします』だとさ。ふざけんなっ!」
くそったれ、と恭一は悪態をついた。ルッツは目を丸くする。
「つまり、全部手書きってことですか?」
「ああ、資料作成も全部なっ!」
苦々しげに恭一は吐き捨てる。
基本的に恭一は資料を有り余る魔力を使って作成している。彼が持つ反則急魔力を使えば疑似パソコンを造り出すことができるし、そのパソコンでマクロを組んでデータ作成、資料作成なんてこともできる。コピーや印刷もお手の物だ。
が、その場合、書類はすべて魔力を帯びる。ペンを自動筆記させても同様だろう。
「あー、面倒くさい。七面倒くさい」
恭一は元日本人である。ゆえに、いまさら書きづらい浸けペンだの羽ペンだの使うのが嫌で、もっぱら魔力で造り出したボールペンを使用している。当然これも魔力を帯びているため、書類には使えないだろう。書く手間も増えたなら書く際の労力もべらぼうに増える見込みである。そもそも書類を読み込んで規定を把握する必要もある。
「ええと……何故魔法を使っては駄目なんでしょう」
ルッツが首をかしげて言うと、恭一はため息をついてうなだれた。
「多分、不正防止だろうな。書面に目くらましの魔法をかけちまえば、粉飾決算をしても誤魔化せるだろうし」
魔法は便利であるが諸刃の剣である。恭一は使う予定はないが、相手を幻惑したり思考に干渉したりする魔法もある。
年末決算は要するに課税金額を決定する申告だ。脱税にかける情熱が熱い人間はどこの国にでもいるようで、恭一が拠点とした国でもそういった手合いに対抗手段を講じているようだった。
「……ってことは、今年一年の取引を全部書き起こす必要が?」
ルッツは顔をひきつらせた。
「そういうことだ」
げんなりとした声で恭一が言う。
店を構えてから日は浅いものの、世界あちこちを放浪している間に作った人脈や評判で顧客は多い。この一年だけでも、大小合わせて軽く数百件の依頼があった。しかもすべての受発注や経費などの記録は恭一が魔法にてファイリングしてしまっている。
「とりあえず、どれくらいの量になるか試してみるか」
と言うと、恭一は棚にある本の中から『総勘定元帳』と『現金出納帳』、『売上元帳』を取り出した。ちなみに素材屋は基本的にいつもにこにこ現金払いである。売掛金は受け付けていなかった。
さて、カウンターの上に出した三冊に恭一が手をかざすと、本は勝手に開いて中から次々と書類が飛び出してくる。
A4サイズとなったそれは、鳩のようにばっさばっさと音を立てながらカウンターの上に着地していく。
すぐに終わるかと思った書類は、次から次へとわき出てくる。
そして数分後。カウンターの上にはうずたかく書類が積まれていた。
段ボール数箱分は軽くありそうな量だった。
決算書類の提出期限は年末なのでまだまだ数か月の余地はある。が、この帳簿を手書きで記帳して一つ一つ計算して既定の書類に一つ一つ手書きで記入することを考えると、現実逃避せずにはいられない量であった。
恭一はおもむろに立ち上がると呟いた。
「――そうだ、京都へ行こう」
「へ?」
ルッツが目を瞬かせた直後、二人は瞬間移動魔法によって、紅葉が美しい山の中にいた。といっても、もちろん京都ではない。彼は異世界へと飛ぶ力は有していない。
周囲の鮮やかな紅葉とは裏腹に、恭一は今年の冬に迫った青色申告のせいで顔面ブルースクリーンである。頭の中はホワイトアウトだ。
「……別に、店を構える国はあそこじゃなくてもいいよな」
「マスター!? 今年開店したばっかりですよ!?」
早くも撤退をほのめかす恭一の声にルッツは思わず突っ込んだ。
「だって書類書くの面倒くさい」
割と恭一が本気で言っていると気付いたルッツは慌てた。
「なら僕も手伝いますから!」
「でもお前数字関係からっきしだろ?」
「う……」
恭一に切り返されてルッツは言葉に詰まった。彼は身体能力に優れてはいるものの、数字を見ると頭痛を覚えるタイプなのだ。細かな計算などもってのほかである。
「どうすっかね」
呟きながら、恭一は周囲の景色をぼんやりと眺めた。
日本のそれとはまた違う山の鮮やかな色づきは、普段ならば彼の心を潤してくれるものだが、今はとてもそんな気分になれなかった。むしろ、あの最後の葉っぱが散るころには決算報告書を出さなきゃいけないのだと憂鬱になるくらいだ。優秀な画家が葉っぱの絵を描いても決算からは逃れられないのが辛いところである。
さて、いつまでも山の中で紅葉を楽しんでいるわけにはいかない。
ため息をつきながら恭一は地図を取り出した。
彼の魔力によって生成された魔法地図は、材質は紙であるにも関わらず、タッチパネルのように触って拡大や移動など操作のできる優れモノである。当然、現在地の把握もできるしオートマッピング機能も搭載している。
現在地を確認した恭一は、うん、と小さくうなずいた。
「とりあえず、飯食いに行くか。腹が減っては戦はできぬって言うしな。話はその後だ」
彼の弟子は反論を避けた。
***
近くの街にまで来た恭一は、地図を見ながら首を傾げていた。
「あれ? おかしいな。確かこの辺にあるって話だったんだが」
恭一は常々人から聞いた情報をメモをとる習慣があり、特に珍しい物が見られる場所、おいしい物が食べられる場所というのは最優先で地図に記録していた。ゆえに、彼の持っている地図はちょっとした観光用マップにもなる。
さて、恭一たちが歩いているのは街の中心地から少しばかり外れたところにある川べりの道であった。色づいた並木の続く道は実に風情がある。流れる川は美しい青緑をしていた。海が近く周囲に大きな山がないため、空が広々としていた。空腹でさえなければ、写真撮影に明け暮れたい絶景である。
かつて知り合った友人によれば、このあたりにおいしい酒場があるはずなのだが。
「それらしい建物も見当たりませんけど……匂いもしませんし」
ルッツが鼻をひくつかせながら言う。耳がピコピコと動いている辺り、本当に猫っぽいと恭一はひそかに思う。髭がないのが残念だ。何故か人猫族には猫のようなピンと張った髭がない。
「まさか場所聞き間違えてたとかか? くそ、久しぶりに川魚食いたかったんだけどなぁ」
と、恭一は眉をしかめた。
素材屋は男所帯である。恭一もルッツも料理が得意とは言えない。恭一は食べる方専門で作る気が最初からないし、ルッツは猫人族なので人間とは微妙に味覚が異なる。お互いの妥協点として恭一メイドの魔力製調味料を使って味を調整してはいるものの、他人の作ったおいしい料理を食べたいというのが人情である。
しばらく歩いていると、前方に廃屋とその前に佇む人物が見えた。
廃屋はかつて火事で焼けたのだろうか、煤で黒ずんだ小さな石造りの家で、入り口が崩れ落ちていた。
その前に佇んでいるのは二十代前半と思しき青年で、丸い眼鏡をかけてややうつむきがちの彼の横顔にはどこか影があり、ふわふわとした金色の髪が風に揺れている様は絵画的であった――
ということには頓着せず、恭一は声をかける。
「あ、すみませーん。この辺にラドラドっていう料理酒場あるの知りませんかー?」
青年が手ぶらで立っていることから地元民なのだろうと当たりをつけた恭一は気楽に声をかけた。あまりの空気の読まなさに、隣にいたルッツが驚いた。
声をかけられた当の本人は一拍置いてゆっくりと恭一の方へ顔を巡らせた。
「……ラドラド、ですか〜?」
先ほどまでの思いつめた表情はどこへやら、青年はきょとんとした顔で首をかしげた。正面から見た表情は、思いのほか若い印象を受けた。
「そう、ラドラドって店。前に知り合いから川魚の料理が絶品だって聞いたんだ。この辺にあるって話なんだけど」
思っていたより年が近いかもしれないと思った恭一が砕けた口調で話しかけると、青年は眉をハの時にした。
「でしたらここのことですよ〜」
そう言って青年が示したのは、目の前の廃屋だった。どう見ても人気はなく、ざっと見た限りでも商売ができる様子でもない。
「……潰れたってこと?」
「そのようなものですね〜。御主人が亡くなられて、その後のごたごたしているときにお店が火事になっちゃったんですよ〜。以前は人が一杯来てたんですけど、今は滅多に人も通りませんね〜」
喋り方こそゆっくりだが、青年の声には悲しみがにじんでいた。
予想外の出来事に恭一は絶句していた。
「……じゃあ、何故あなたはここに?」
ルッツがおずおずと尋ねると、青年は苦笑を浮かべた。
「ここは、僕にとって思い出の場所なんですよ〜」
そう言ってから、ふと青年は思いついたように手を打った。
「そうだ、せっかくここまでいらしたんですから、おいしい料理を食べていきませんか〜? 街中なんですが、ラドラドの御主人の娘さんがされてる料理屋があるんですよ〜。おいしいですよ〜」
「へえ。本当か? ならぜひ案内して――」
その瞬間、恭一の頭の中でアラームが鳴った。
あらかじめセットしてあった魔法が発動し、恭一の手は殺気が来る方向へと向けられた。
魔力の盾が広がり、飛んできた矢が宙で弾かれて落ちた。
「マスター!」
ルッツが切迫した声を上げた。慌てて恭一のそばへと駆け寄る。腰もとへやった手は空を切る。残念ながら掃除の最中だったため帯剣はしていなかった。
「誰だ、出てこい!」
恭一は二人を背後に庇うように立つと、矢が飛んできた方に向かって怒鳴りつけた。
すると返事の代わりに返ってきたのは小ぶりな投げナイフであった。恭一は難なくそれを撃ち落としたが、件の刺客は恭一たちがナイフに気を取られた隙に消え失せていた。
「……転移魔法か」
賊がいなくなったことを確認した恭一は眉をしかめた。並木道だ。それほど見晴らしが悪い場所ではない。一瞬で視界から消えるなどということは物理的には不可能だが、魔法的には可能なのである。
恭一は先ほど知り合ったばかりの青年を見やる。
「心当たりはあるか?」
青年は少々強張った顔をしていたが、すぐに元ののんびりとした顔に戻った。あるいは、これが彼なりのポーカーフェイスなのかもしれない。
「なきにしもあらずですね〜。でも多分、あなた方は巻き込まれただけだと思いますから、心配なさらないでくださいね〜」
ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべる青年だが、言っていることは少々きな臭かった。
恭一とルッツは顔を見合わせる。
が、青年は特に気にした様子もない。
「それじゃあお店の方に案内しますね〜。あ、僕はトニって言います。よろしくお願いします〜」
え、この流れで? と思わないでもなかったが、恭一は日本人特有のあいまいな笑みを浮かべて彼にうなずき返す。
「俺は恭一だ。よろしく、トニ」
「キョイ、チさん、ですか? 変わったお名前ですね〜」
「ああ、遠方の出身なもんでね。こっちはルッツだ」
「……ええと、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ〜」
にこにこと笑うトニに、どうにも憎めない雰囲気の奴だな、と恭一は内心で嘆息したのだった。
さて、刺客が再来することもなく、恭一たちはしばらく歩いて件の料理屋へと無事到着することができた。
まだ新しい看板にはドラドの料理屋と書かれている。先ほど見たラドラドの半分ほどの間口しかない、小さな店である。
「ここですよ〜。おいしくてボリュームもたっぷりだから僕もよく来るんです〜」
と言いながらトニが店の扉に手をかけたとき、中から若い女性の声が聞こえた。
「止めてください!」
続いて陶器の割れる音が響く。恭一は眉をしかめた。
「エルちゃん?」
トニが慌てた様子で店内に踏み込んだ。恭一たちもそれに続く。
店内は外観通りこぢんまりとしていた。
三人がけのテーブルが二つとカウンター席が四つあり、カウンター脇から奥の厨房に行けるようになっているようだ。
現在はカウンターの中に店員らしき人間が二人立っており、テーブルに二人連れが一組、三人組が一組、そしてカウンター席に部下らしき人間を二人従わせた小太りの男が一人座っていた。身なりからして、小太りの男は上流階級の人間だろう。店内の人間は剣呑な視線をカウンターの客に向けており、一人カウンターに座っている男はカウンター内部にいる店員らしき若い女性の腕を掴んでいた。背中を向けているせいか、こちらに気付いた様子はない。
カウンター席の下には割れた皿と無残な料理が見える。恐らく、争ったはずみで皿が落ちたのだろう。
「――そう邪険にしなくてもいいでしょう」
カウンター席の客は妙に猫なで声で女性に話しかけている。
話しかけられているのは妙齢の女性だ。やや癖のある金髪を後ろにまとめて小ざっぱりとした服装をしているが、非常に美人である。が、現在その美しい顔には嫌悪感が浮かび、目は涙ぐんでいた。彼女の隣の店員も、また店内にいる他の客もカウンター席の客を射殺さんばかりに睨みつけている。
どういう話をしていたか分からないが、女性の表情や店内の様子を見るに、あまりいい内容ではないようだ。女性は掴まれた腕を振りほどこうとしているようだが、うまくいっていない。
「エルちゃん」
トニが声をかけると、エルと呼ばれた女性の顔がぱっと輝いた。
「トニさん!」
途端に男は掴んでいた女性の腕を外してぎょっとしたように振り返った。
トニの姿を認めた途端、目を剥いて怒鳴る。
「何故生きている!?」
犯人はヤツ、と恭一は胸中で呟いた。男が持っている杖には貴族の紋章が刻まれており、一目で高価と分かる宝石のついたアクセサリーや毛皮の服などからかなりの身分であることが推察できる。部下らしき人間が携えている武器も立派なものだ。先ほどの刺客は恐らく金で雇ったのだろう。それぐらいは簡単にできそうな立場の男がこんな庶民的な料理屋に居座っている様はかなりの違和感を覚えた。
「こんにちは、バッツドルフ様。おかげさまで、元気ですよ〜」
トニは少しばかりずれた回答をする。嫌味ともとれる回答だ。バッツドルフと呼ばれた男は口の端をひきつらせた。その隙に、エルはカウンターを回ってトニの方へと逃げた。
「お話を邪魔して申し訳ありません、バッツドルフ様。それでどういったお話でしたでしょうか〜」
にこりと笑って言ったトニだったが、目は笑っていない。
彼らの因縁が分からない恭一としては、ただ空気となって成り行きを見守るだけだ。
「ふん。貴様には関係ない話だ」
バッツドルフは早々に立ち直ったようで、不遜な顔でトニとついでに一緒にいる恭一たちをねめつけてきた。ルッツは身を固くして微妙に後ずさる。失礼な態度に恭一は眉を寄せた。
そしてバッツドルフはトニの腕にすがりつくエルを見て目を細めると、トニに杖を突きつけて高圧的な口調で言い放った。
「貴女もこんな男とは手を切るべきです。またいつ不正を働くか分からない。次は禁固刑では済みませんからね」
エルはぎゅっと唇をかみしめると、悔しげにバッツドルフを睨みつけていた。トニも表情を消し、ゆっくりとした口調で呟く。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。真実は時の娘ですからね」
するとバッツドルフは鼻で笑い、部下に合図をすると恭一たちを押しのけ店から出て行った。
***
不逞な輩がいなくなると、それまで息を殺していた他の客たちもほっと息をついた。
「エルちゃん、大丈夫だったか?」
「ごめんな、力になれなくて」
店にいた客たちは申し訳なさそうに話しかける。エルはふるふると首を振った。
「しょうがないわ。下手なことを言ったらみんなにまで迷惑がかかるもの」
美女の顔には憂愁の色が濃い。美人はどのような顔でも魅力的であるが、憂い顔だと魅力が当社比二割増しである。思わず見とれた恭一であった。
「ごめんなさいね、トニさん。助けてくれてありがとう」
「いえ、僕は大したことはしてませんよ〜。こちらの方に助けてもらわなかったら今頃死んでましたし〜」
その言葉でようやくエルは恭一たちの存在に気付いたようだった。目を丸くして恭一たちに向き直る。
「あ、あら初めまして。トニさん、こちらの方たちは?」
「先ほど僕の命を助けて下さったんですよ〜。キョイチさんとルッツ君です〜」
「いや、恭一な」
恭一は訂正するが、トニは何が違うのかいまいちわかっていないようである。
何故だかは分からないが、恭一の名前はこの世界の人間には発音してもらえない。彼の名前を正確なアクセントで言えるのは、時折会う同郷の先輩ぐらいなものである。その人もまた、自分の名前は正確に発音してもらえないと言っていた。
「キョイチさんとルッツ君ね。初めまして。トニさんを助けて下さってありがとうございます」
「い、いや。大したことはしてないし……」
優しい表情で笑いかけられると、恭一は思わずドギマギしていた。基本的に美女には弱いのだ。
「お二人はラドラドを訪ねていらっしゃったらしいので、せっかくだから助けて貰ったお礼に食事を御馳走しようと思ってご招待したんですよ〜」
え、そうだったっけ? と思わず恭一がルッツに目で問いかけると、ルッツも初耳ですと目で答える。耳がピコピコと動いた。
しかしそれに気付かないトニはてらいのない笑顔を二人に向けた。
「というわけで〜こちらの方がさっき言っていたラドラドの御主人の娘さんで、エルフリードちゃんです〜。お父さん譲りの料理の腕は天下一品ですよ〜」
「改めましてエルフリードです。先ほどはお見苦しいところをお見せしてしまって……」
と、恥いるようにエルが言う。
「お礼に腕を振るいますから、存分に食べて言ってくださいね」
暗い雰囲気を打ち払うようにエルが言うと、店内の人間もぎこちなさが残る者の、新参者に対して歓迎の様子を見せた。
「せっかくだ、兄ちゃんたちこっちに座りな」
そう言って、それまで酒を飲んでいたらしい三人組の男が席を空ける。
「ありがたいけど、おっちゃんたちは?」
「俺らはそろそろ仕事に戻らにゃ親方にどやされるからな。それじゃエルちゃん、またな」
恭一の問いに男はおどけて答えると、勘定を済ませて店を出て行った。もうひと組の客も潮時だと引き上げていった。
そうして店内にいる客は、恭一たちだけになった。男たちの好意に甘えてテーブル席に腰かけた彼らのところに、三人分のジョッキが運ばれてきた。持ってきたのは十二、三歳の少年だった。先ほどカウンター内からバッツドルフを睨みつけていた店員だ。
「これ、サービスです。さっきのお礼に」
いささか荒っぽい手つきでテーブルの上にグラスがジョッキが並べられる。中には並々と度の強い火酒が入っていた。
「ザシャ君、ありがとうございます〜。あ、お二人とも、この子はエルちゃんの弟でザシャ君です」
トニが紹介すると、ザシャは小さな声でどうも、と呟いた。あまり社交的ではないらしい。
恭一は早速火酒に口をつけながらトニに気になっていたことを尋ねた。
「さっきの男って、この辺の地主だろ? なんでこんなところに来てんだ?」
恭一の言葉にトニは眉を落とした。
「分かっちゃいます?」
「そりゃまあ、杖持ってたし」
恭一が言うと、トニは苦笑を洩らした。
「マスター、杖を持ってたらなんで地主なんですか?」
と、ルッツが不思議そうな顔で言うと、恭一が目をみはったが、やがて合点がいったようにうなずいた。
「そっか。ルッツは北の出身だったな。この国だと、地主にはみんな特別な作りの杖が支給されてるんだよ。こういうの」
そう言って恭一が指を鳴らすと、空中から先ほどのバッツドルフが持っていたものとよく似た杖が現れた。グリップ部分に銀で貴族の紋章が施されている。
「この国じゃこういう銀で紋章を装飾した杖を持てるのは地主だけって決まってるんだ。領主なら金で模した紋章になるしもっと豪華になる」
「ではマスターが今お持ちのその杖は?」
「俺のコレクションを引き換えに譲ってもらった。領主にバレたら首が飛ぶから秘密な」
ルッツは聞かなかったことにした。それって法律に抵触するんじゃないですかという疑問は速やかに葬り去っておくことにした。
恭一が再び指を鳴らすと杖はどこかへ消える。
それを見てトニが目を丸くしながら言った。
「キョイチさん、すごいですね〜。先ほどもそうでしたけど、実は高名な魔法使いなんですか〜?」
「いいや。俺は素材屋。魔法や錬金術、工芸なんかの珍しい素材を調達するのが仕事。あ、これ名刺な。仕事の依頼の時はいつでも言ってくれ。裏にメッセージ書いたら俺のとこに届くし」
恭一は再び指を鳴らすと、虚空から名刺を取り出す。
あらゆる言語の人が書いてあることを理解できる、魔法の名刺である。表面には恭一のファーストネームと店の住所が書いてある。裏面に何かしら文字を書くと恭一の持つ魔力性似非スマートフォンにメッセージが送られる。
名刺にフルネームを書かないのは呪い避けだ。油断ならないことに、魔法のあるこの世界では相手のフルネームを知っていると力のある魔法使いならば呪いをかけられるのである。といっても、基本的に誰も本名を発音できないのだが。
「へ〜。素材屋ですか〜。聞いたことはあるんですけどお目にかかったのは初めてです〜」
と、トニは名刺をしげしげと見ながら言った。
「マスターは王宮魔法使いですら負かせるくらいの実力の持ち主なんですよ!」
ルッツが自慢げに言うと、恭一は肩をすくめた。
「自分のため以外に使うつもりないけどな」
「またそういうことをおっしゃって」
やる気のない恭一の発言にルッツは不満そうにした。
「でも僕のこと助けてくれたじゃないですか〜。十二分にありがたいですよ〜」
「それはそれは」
ぶっきらぼうに答えた恭一は頬をかく。
が、やがてふと入り口の扉に目をやった。
「ところで……殺し屋が依頼に失敗したからって暗殺対象に謝罪に来ると思うか?」
唐突な問いにルッツは目を瞬かせた。
「それはあり得ないと思いますけど……」
「だよなぁ」
恭一がため息をついたのと同時に、店の入り口が開いて一人の男が店内に入ってきた。
至って普通の庶民の格好をした彼を見た恭一は、テーブルの上でキーボードでも叩くかのような所作をした。彼が魔法を使う予備動作だ。
男はカウンターへと向かう素振りを見せたが、恭一たちのテーブルの横を通り過ぎようとしたその瞬間に白刃がきらめいた。
一般市民に化けた暗殺者が持っていた鋭いナイフがトニの首筋を狙う。
が、
「一回失敗してんだから諦めたらどうだ?」
ナイフはトニの眼前で完全に停止していた。男の表情は凍りつき、体は指一本動かせなくなっている。
トニは目をみはりながらも素早く身を引いてナイフの届かない場所へと移動した。
「きゃあ!」
料理を運んできていたエルフリードが男の刃物を見て悲鳴を上げた。
「トニさん、これは一体……!?」
エルフリードが震えながら言うと、トニは困ったように首をかしげた。
「僕の命を狙った刺客みたいです〜。またキョイチさんに助けてもらいましたね〜。ありがとうございます〜」
命の危機を目前にしても呑気な男だな、と恭一はつくづく感心したのだった。
「もうちょっと焦ってもいいんじゃないか?」
「焦ったところでどうなるわけでもありませんし〜。どうしましょうね〜、この人」
困り顔のトニにはやはり緊迫感は見られない。
「締め上げて依頼人を吐かせましょう!」
「そうするしかないだろうな」
いきり立って言うルッツに、恭一もため息交じりでうなずいた。
正直な話、恭一としては自白のための尋問はそれほど得意でもないし、拷問や服従魔法も嫌だ。気鬱な話である。
が、この状態で役人につき出しても意味がないことは確かだ。地主の差し金ならば余計に。
「乗りかかった船だ。お前には一切合財吐いてもらう。観念しろよ」
意図的に悪人顔を作りながら恭一が言うと、暗殺者の男は目を伏せた。
「俺は――」
男が何かしゃべりかけた途端に、ピキピキと音がする。
「なんの音……って!」
恭一は驚愕に目を見開いた。
暗殺者の男が足が石と化している。否、足だけではない。石化は電流が走るかのごとくの速さで進み、ひゅっと息を飲むまでに男の心臓を無機物へと変え、男の顔が苦痛で歪む前に驚愕の顔のままにとどめた石像へと変えてしまった。
「石化の魔法……? 一体誰が」
ルッツが恐る恐る手を伸ばそうとした瞬間、男だった石像は音を立てて砕け散った。無数のかけらが床に散らばる。
「後始末用の魔法が掛けてあった、ということでしょうか。かわいそうに」
トニが痛ましげに言う。石化魔法はそういった使用法では有名だ。
「……人間のやることかよ」
恭一が思わず吐き捨てる。
再生が可能か確かめるために石のかけらを調べてみるが、分かったことは手遅れだということだけだった。生体反応がないそれは、単なる石にしか過ぎない。そして恭一は反魂の魔法を使えない。
店内に重苦しい沈黙が満ちた。
「……とにかく、このままにしておけない」
短い逡巡の後、恭一は防音結界を張ると暗殺者だったものを魔法で店内から片づけた。
「さっきの男の死体は、一時的に俺が預かっておく。ことが片付けばしかるべき機関に引き渡すか、あるいは埋葬しておこう」
そう宣言すると、恭一はトニに向き合った。
「これで俺も共犯だ。巻き込めないから帰れ、なんてなしだからな」
トニは深刻な面持ちでうなずいたのだった。
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