さて、人前でする話ではないということで、恭一とルッツはトニの家へと移動することにした。
店を出るときには念のためエルフリードたちにはボタンを押せばすぐさま恭一たちを呼べる防犯ブザーを持たせておき、さらには防御魔法も各種かけておいた。ルッツも念のためお守りと彼の相棒である剣を持たせておく。
歩く道すがら、恭一は呟く。
「トニ、随分と有名人なんだな」
「ええ、まあそうですね〜。あまりありがたくはないんですが〜」
トニが苦笑する。
というのも、道ですれ違う住民が露骨にトニを避けるからだ。それが嫌悪感を伴う行為ならば恭一はトニを疑ったかもしれないが、住民たちの顔を見る限りそういったものではないらしい。表現するならばそう、君子危うきに近寄らず、触らぬ神になんとやら、といったところだろう。後ろめたい顔で避けられてはどういう顔をすればいいのか悩みどころである。
もちろん挨拶をしてくれる人もいるのだが、そういった人たちは漏れなく人目を気にしている。
なんとなく事情を察しながら恭一たちは歩く。ルッツは居心地が悪そうだ。
十数分の道のりを経てトニの部屋に着いた恭一は顔を引きつらせた。
「……すごい部屋だな」
「そうですか〜? ありがとうございます〜」
「いや、誉めてねぇよ」
恭一は涙目のルッツを横目に言う。
のほほんと言うトニには悪いが、恭一たちが足を踏み入れた部屋は人間が住む部屋にはかなり不向きなようだった。
そもそも建物の外観自体が廃墟然としていて、屋根は外から見ても分かるくらい破損しているし、煉瓦の外装には傷と落書きだらけだし、窓ガラスは割れている。避けるようにして入った門扉は錆ついて元の色が判然とせず辛うじて門に引っかかっている状態で、共用の玄関扉はペンキがはげてドアノブは触りたくないぐらいさびていた。
所々穴のあいている木の階段を下りた先にあったトニの部屋は、地下室のせいか明かりをつけても薄暗く、湿気ており、カビ臭く、壁のレンガがいくつか抜け落ちて土壁が見え、天井はたわみ微妙に床が腐っているという非常に劣悪な環境だった。
しかし壁際の本棚や筆記具の置いてある机を見る限り、部屋の主が真面目で勉強熱心であることがうかがわれる。
「ちょっと悪いがファブっとこう……」
コノ部屋臭ウヨー! と叫びながら全力で逃げる王子のCMが浮かぶほどの臭いである。部屋の中の匂いに耐えかねた恭一は防音結界と共に清浄化の魔法をかける。部屋の中の空気が清冽なものとなる。
すでに寿命を迎えているのではないかと心配になるガタガタの椅子に腰かけつつ、恭一はトニの淹れてくれたお茶を飲んだ。ルッツは椅子が足りなかったので恐縮しながらベッドに腰掛けている。
「美味いな」
「トニさん、本当においしいです」
「ありがとうございます〜。以前はラドラドの御主人に色々仕込んでもらったんですよ〜」
二人の称賛にトニははにかんだ笑みを浮かべる。彼の淹れてくれたお茶は劣悪な環境をものともせず文句なしに美味しかった。人は見かけによらないものだ、と恭一は感心する。
「――さて。一息ついたところで話を聞かせてもらおうか。地主との間に何があった?」
和やかな時間を早々に切り上げた恭一が単刀直入に尋ねると、トニも表情を改めた。
「端的に言えば、僕が彼の不正を指摘しようとした、ですね〜」
トニの言葉に恭一がうなずく。
「なるほど。そして真実を明らかにする前に濡れ衣着せられて逆に悪者に仕立て上げられたってとこか?」
「ご明察です」
トニは苦笑した。深い苦悶がその目に浮かぶ。
「……キョイチさんは財務士ってご存知ですか〜?」
「あー、話し程度には聞いたことがあるな。資格が必要だと聞いたが」
大雑把に言えば日本で言うところの税理士兼経理士といったところか。金銭の出納から資産の運用、役所に提出する税金関係の書類など、財務に関する仕事のスペシャリストだ。国家資格であり、隔年で実施される科挙のような地獄の試験を突破した者だけが名乗る資格があるといういわばエリート中のエリートなのである。
「はい〜。僕は昔、ラドラドで仕事をしながら財務士の勉強をしてたんです〜。二年前に試験に合格して、バッツドルフ様のところで財務士としてお仕事を頂いたんですが――」
トニは顔を曇らせた。
――財務士試験に合格するというのは、町の人間にとっては田舎の高校から東大合格者が出たような、あるいは過疎の村から弁護士や会計士が輩出されたような、そんな快挙なのである。町の誇りといっても過言ではない。穏やかで憎めない性格からトニは町の人間からもかわいがられていて、顔も広かった。町を挙げての万歳三唱の雰囲気になっていたそうである。
トニとしては、お世話になったラドラドで働いて恩返しをしたかったそうなのだが、それを店の主人、つまりエルフリードたちの父親が許さなかった。宝の持ち腐れだというのだ。
財務士の資格を有しているならば地方領主の館や大手の商会でも諸手を上げて迎えられる。国の中枢でも働ける。実際、引く手あまただったそうである。
けれども今の町を離れたくなかったトニは、最終的にある程度面識があり、かつ勤務先が近い地主のバッツドルフのところへと雇い入れられることとなった。
ある意味、これが最大の間違いだったと言える。
勤め始めたトニは、過去の帳簿整理や出納管理をし始めたわけだが、日々の帳簿を見るにつれ、違和感を覚えるようになった。
金銭の流れがどうにも不自然に思えるのである。
気になった彼は少しずつ調査を進め、確信に至った。
バッツドルフは税収を誤魔化し、裏金を作っている、と。
それに気付いた彼は、バッツドルフに直談判したそうである。といっても、詰問ではなく、諸々の申請を訂正したほうがよいのではないか、という形で。
すでに裏金は何年にもわたって工面されているようで、今更過去の分に遡るよりも、今後の不正を無くした方が良いと判断したからだ。計算した追徴課税がとてもではないが払える金額ではなかった、というのも理由の一つである。追徴課税の場合、通常よりも遥かに多く払わなければならない。そうなれば数年分の税収がなくなってしまう。地主の罪のしわ寄せで町の住民に被害が及ぶのを避けたかったのだ。
しかしトニが直談判した翌日、バッツドルフからは唐突な解雇通知が出され、さらにはトニは公金の横領犯として拘束されてしまったのである。
そして出来レースに等しい裁判を経て、彼は禁固一年を言い渡された。
「――なんとか刑期は終わったんですけど、誰だって自分の生活がありますからね〜。大っぴらに犯罪者と仲良くするわけにはいかないんですよ〜」
トニは呑気な声で言うが、事態は切実である。
地主直々に犯罪者と告発された上に公金横領の犯罪者として裁判で裁かれている。住居を追い出されても新しく家を貸してくれる人が見つからない。そして苦労の末ようやく見つけた物件は、この何年も人が住んでいないような廃墟然とした建物の地下室だったというわけだ。
「そんなの、ひどいじゃないですか! トニさんがやったわけじゃないって分かってくれる人もいるんでしょう!?」
義憤に駆られたルッツが声を荒げる。が、トニは困ったよな笑みを浮かべた。
「もちろん、僕を信じて下さる方もいらっしゃいますし〜、同情して下さる方も少なからずいらっしゃいます〜。でも、誰だって自分の生活がありますからね〜。僕と仲良くしたせいで、見せしめにひどいことをされた方もいらっしゃいますから〜」
「じゃ、じゃあ無実なんだったら国に訴えればいいじゃないですか!」
「僕が持っていた証拠はすべてあちらに取り上げられているんです〜。多分もう処分されてると思いますよ〜? 僕が申し立てしたのは一年も前ですから〜。彼の良心や倫理観を信じたのは失敗でしたね〜」
困ったように首をかしげるトニは、重すぎる現状と裏腹な印象を受ける。
いっそ悟って諦観しているのか、と恭一が心配してしまうほどだ。
「監査が入るように手引きはできないのか?」
「証拠がありませんからね〜。そもそも裏帳簿の作成もかなり綿密にしていたようでしたから〜、正直な話、僕が初仕事だからって張り切って過去の帳簿の隅から隅まで見たから気付いたようなもので〜」
「そりゃ災難だな」
恭一は同情を禁じ得なかった。
もしトニがもう少し仕事に不真面目かつ鈍感であれば、あるいは権力者に逆らわないタイプであればこういった形での悲劇は起こらなかっただろう。
が、誰かが告発しなければ、バッツドルフの悪事はずっと続いていく。
「じゃあ今回の暗殺未遂は口封じってことか? でもなんで今さら。言っちゃなんだが、禁固刑の最中に暗殺すりゃよかっただろうに」
「マスター!」
恭一の言葉にルッツが批難がましい声を上げた。トニは恭一のあけすけな言葉に気分を害した様子もなく唸る。
「これは僕が感じた事なので確信はないんですが、領主様の耳に今回のことが届いているようなんですよね〜。僕、取り調べ中も裁判中もバッツドルフ様の公金横領については認めても、自分がしたとは絶対に認めませんでしたし〜、もちろん横領犯の言うたわごとという可能性もありますが〜、それなりに僕やバッツドルフ様の動向に注意を払っているようです〜」
トニの説明で恭一も合点がいった。
「なるほど、つまり刑期中に口封じでございと分かるようなことをするわけにはいかなかったってことか」
「恐らくは〜。ただ今は、僕の刑期が終わったはいいものの、雇ってくれる人もなくって糊口をしのぐのも厳しい状況ですし、街の人からは疎ましく思われていることも事実ですし〜。僕が何らかの事故や事件に遭って死亡してもそれほど不審じゃないってことじゃないかと〜。あとはエルちゃんの件ですね〜」
「彼女の? そういやあのおっさんに迫られてたみたいだが、そっちも関係あんのか?」
恭一が尋ねると、トニは沈んだ表情になった。
「僕が禁固刑になってた時、エルちゃんやザシャ君が差し入れに来てくれたんです。その時にあの人に見られたみたいですね〜。もともと好色で有名な人でしたし、エルちゃんは美人ですから……」
「……トニとエルフリードさんって付き合ってんのか?」
来るショックに身構えながら恭一は尋ねた。が、トニは首を横に振る。
「いえ、僕にとってエルちゃんは妹のような存在なんです〜」
そしてふっとトニが真顔になる。
「そんな大事な子を、ろくでなしの犯罪者にやるわけないじゃないですか。少なくとも、僕が生きている間は持てるすべての手段を使っても阻止します。そうじゃないと、ラドラドの御主人に申し訳が立ちません」
先ほどまでの呑気な様子が嘘のようになりを潜める。恭一はその迫力に思わず気圧された。
「い、いずれにせよ、バッツドルフをなんとかしないと抜本的な解決にはならないってことか」
現状を一通り聞いた恭一は額を押さえた。
不正がばれてしまえば相手は一貫の終わりなのだ。何が何でもトニの口封じをしに掛かるだろう。暗殺者を雇うはずだ。暗殺を阻止するのは容易であるが、それでは抜本的な解決にはならない。
「じゃあバッツドルフの家に行って締め上げてやりましょう! そいつの口から悪事を吐かせて牢屋送りにしてやったらいいんです!」
憤然としたルッツは己の得物をぎゅっと握りしめる。
「締め上げるって何する気だよ」
「決まってます! 反省するくらい痛めつけてやればいいんです!」
ルッツの発言は実に好戦的な人猫族らしい。
鼻息の荒いルッツとは対照的に、恭一は考え込んでいた。
「とはいえ、自分の犯罪が明るみに出たら相手は一貫の終わりだからまず吐かないと思うが。それに相手は権力者だし、拷問による尋問は法的な効力を持たないんじゃなかったか?」
「そうですね〜。それに、自分たちの安全が確保されたら脅されたから仕方なく喋ったと意見を翻す可能性もありますし〜」
「その場合は俺たちよりバッツドルフの証言が採用されるだろうな。権力者だし」
「僕に至っては犯罪者ですからね〜」
冷静に会話する恭一たちに、ルッツは毛を逆立てた。
「だからといって、このまま何もせずに泣き寝入りするっていうんですか!?」
「そうじゃない。今回は相手が相手だ。慎重に行動すべきだって話。正攻法も力技も勝率が低い
」
恭一が諭すように言うものの、ルッツは興奮で顔を赤くしている。
これはまずいな、と恭一が考えた直後、ルッツは体を震わせて叫んだ。
「マスターの意気地なし! 悪人がのさばってるのを見逃すなんて、僕にはできません!」
言下にルッツは部屋を飛び出す。
「おい、ちょっと待てルッツ!」
恭一の制止も聞かず、ルッツはあっという間に見えなくなった。全速力であっても腐った床板を踏み抜かなかったのはさすがはは人猫族といったところか。
「ルッツ君、足が速いんですね〜。キョイチさん、追いかけないんですか〜?」
トニが目を丸くしながら尋ねる。恭一はため息をついてしばらく考え込む。
ルッツがどのような行動に出るかは、それほど長くない付き合いの中でも十分に予測ができた。彼は基本的にカッとなったら猪突猛進である。が、存外に熱しやすく冷めやすい性質も持ち合わせている。バッツドルフの屋敷に行くまでにある程度頭は冷えるはずだ。それに彼には恭一謹製のお守りを持たせてある。危険はそれほどない。
「そうだな……あいつを追いかける前にいくつか聞いておきたいことがある」
恭一は考えを巡らしながら口を開いた。
***
道を走りながらルッツはぐずぐずと泣きべそをかいていた。
「もうマスターなんて知らない、マスターの馬鹿、意気地なし!」
ぶつぶつと文句を口にしながら走る人猫族の少年に、町の人は好奇の視線を向けるが声をかけることはない。そのことにも嫌気がさしつつ、それでもルッツはバッツドルフの屋敷の方へと走り続けた。場所の見当はあらかじめつけてある。丘の上に豪奢な屋敷があるからそれだろう。
日は傾き始め外は暗くなり始めていた。人気のない道を走っているうちに、ルッツの義憤に駆られた激情も少しずつ勢いがそがれて来た。足の動きが鈍くなり、尻尾も力なく垂れる。
恭一の言うことももっともである。
冷静に考えてみれば、余所からふらっと訪れた旅人と公金横領で禁固刑となった人間が地主の罪を訴えたところで、真面目に取り合ってもらえるわけがない。逆恨みか金目当てと取られるのがオチだ。
さらには地主に暗殺者を差し向けられて、捕えたが魔法によって石と化して砕け散ったなどと言えば、作り話だと鼻で笑われてもおかしくない。地主側もそれを分かっているからこそ暗殺者を差し向けたのだ。
考えれば考えるほど足が重くなり、ルッツはついに立ち止まってしまった。
勢いで恭一を批難したはいいものの、自分の考えなしの行動に深く後悔したのだ。
「どうしよう……」
思わず頭を抱えてため息をついたルッツだったが、ふと見知らぬ人間の匂いに気付いて周囲へ視線を巡らせた。
「何の用ですか?」
思わず剣呑な声が出たのは、彼の周囲を囲む人間が皆武装していたからだ。総勢五人、いずれもそれなりに腕が立つ人間のようである。
警戒を強めるルッツに、リーダーらしき男がうすら笑いで話しかけて来た。
「主人がお前に用があると仰せだ。ついてこい」
「嫌です。用があるならそちらから出向くのが筋じゃないですか?」
つっけんどんに言い返せば、男たちの間から失笑が漏れる。
「怪我をしたくなければ大人しくついてこい」
得物をちらつかせながらの高圧的な物言いに思わず男を睨むルッツだったが、ふと思い直す。
彼らの雇い主は十中八九バッツドルフだろう。正面突破で地主に会えるかどうかわからない今、ここは大人しく従うふりをした方が利口ではないだろうか。
「……分かりました」
甚だ不本意ではあるが、武装集団に囲まれていることもあり、大人しく降参のポーズをとることにした。
後で目にもの見せてやる、と思いながら。
***
バッツドルフの屋敷に着いたルッツは、裏口から屋敷の中へと通された。
廊下を歩きながらルッツは屋敷の悪趣味さにげんなりとした。
作りを見る限り、元は質実剛健だったのだろう屋敷は、後から付け加えられた豪奢で悪趣味な飾りが浮いていた。廊下にこれ見よがしに飾られている美術品は飾棚や額縁は豪華だが美術品自体の年代や傾向や質などに統一性がなくちぐはぐだ。二階から見えた吹き抜けのホールの天井にある金のシャンデリアは、ホールの広さにしては大きすぎる代物である。
まさかこれらをバッツドルフが一代で用意したとは思えないが、それにしたってルッツは見ているだけでめまいを覚えそうだった。
さて、屋敷の中で他の使用人に遭遇することもなく、ルッツは武器を取り上げられた上に手を縛りあげられた状態である一室へと閉じ込められた。その部屋は廊下などの様子と比べて殺風景と思える空間だった。大きな掃き出し窓に掛かった年代物のカーテンは落ち着いた青色をしており、床にはシンプルで毛足の短い灰色の絨毯があるだけ。唯一異彩を放っているのは、誰が座るのか部屋の中央に置かれたやたらと細工の凝った椅子だけだろう。それ以外に家具らしい家具はなく、壁に向かって置かれたその椅子の前の絨毯には黒いシミができていた。ルッツは男たちに押されるように歩き、黒いシミの場所に跪かされた。乾いてはいるが、シミからかすかに漂う血の匂いに眉をしかめる。
ややあって護衛と共に部屋にやってきたのは予想通り、バッツドルフだった。ルッツはバッツドルフをきっと睨みつける。
「何の用ですか」
低い声で尋ねれば、バッツドルフは意味ありげな顔でにやにやと笑う。
「やはり人猫族の子供だったな。見事な毛皮だ。さぞや高く売れるだろうな」
その言葉にルッツの全身の毛が逆立った。人猫族の毛皮は、一部の闇市では高値で取引されている。過去にはルッツもその毛皮目的で人攫いに捕まるところだった。
過去の体験がフラッシュバックし、嫌悪感と怒りで血液が沸騰するような感覚に襲われる。思わずバッツドルフに飛びかかろうとしたルッツを、周囲の男たちが力づくで抑えつけた。
「っこの下種が!」
激情に駆られて叫ぶルッツだったが、バッツドルフは涼しげな顔で彼を見下ろしている。
「ふん。犯罪者とつるむ亜人風情が生意気な口をきくもんだ」
「犯罪者はそっちだろ!? トニさん嵌めて濡れ衣着せて自分の罪をなすりつけた癖に!」
喚くルッツをバッツドルフは不愉快そうな顔で見下ろした。
「やはり毛皮にするのが一番だな。小うるさい口をきくこともなくなる。おい、用意しておけ」
「はい」
部下の男が部屋を出ていく。何の用意かは分からないが、少なくとも自分にとって有利なものではないだろうとルッツは思った。
「トニさんに暗殺者を差し向けたのもあんただろ!」
「何のことやらさっぱりだなぁ?」
バッツドルフは空とぼけた様子で首をひねる。あくまでもしらを切るらしい。
ルッツははらわたが煮えくりかえるほどの怒りに苛まれた。知らずに息が荒くなり、爪や牙が剥き出しになる。男たちが抑えつける力を強くした。
「卑怯者。自分のやっと事の責任も取らず、こそこそ裏に手を回して罪のない人を陥れて。それが貴族のすることか。立場のある者のすることか。人として恥を知れ!」
吠えるルッツの顔を不愉快そうな顔のバッツドルフが蹴りあげた。
「ほざけ下賤の民が。知った風な口を」
吐き捨てるように言うと、再びルッツを蹴りあげる。
「貴様ら平民はただ我々貴族に大人しくすべてを差し出せばいい。頭の足りない、目先のことでぎゃあぎゃあと騒ぎ、不満ばかり並べ立ててろくな仕事もできないグズばかりだ。私ばかりが働いているのに、上はその功績すらまともに見ない。ならば自らで自分の功績に相応しい報酬を用意するのは当たり前だろう?」
「あんたに相応しいのは牢獄だ!」
三度ルッツの顔面に靴がめり込む。口の中が切れ、痛みと不愉快な鉄の味にルッツは顔を歪めた。バッツドルフは唾を吐き捨てる。
「あの男もそうだ。せっかくこの私が採り立ててやったのに、わざわざ過去帳簿まで調べて裏金のことにまで気付いた上に、申請を修正しろだと? 恩を仇で返しおって。平民風情が、身の程知らずにもほどがある!」
「トニさんはあんたと違って真っ当な仕事をしただけだろう。それが仇になったのはあんたの日頃の行いのせいじゃないか!」
「うるさい!」
バッツドルフが今度はルッツの頭を踏みつけた。殺意を覚えながらルッツは暴れるが、屈強な男たちの拘束はほどけそうにない。自分の無力さに歯噛みする。
「貴様もあの男も、忌々しい。早々に始末して、私はあの美しい女をものにしなければ気がすまん。邪魔立てしおって」
バッツドルフは苛立った様子で言う。ルッツが反論しようとしたその時、先ほど席を外した男が戻ってきた。手には物々しい薬瓶が握られている。バッツドルフはにやにやと笑いながら男から瓶を受け取る。
「何をするつもりだ……!」
ルッツが威嚇するように唸ると、バッツドルフは愉快でたまらないといった風に嗤いだした。
「どうした、下郎。急に怯え出して。何も恐ろしいことはない。貴様はこれから私の役に立つようになるだけだ。その生意気で躾けもろくにできていない口が二度と開かないように、その立派な毛皮だけが残るようにするだけのことだ」
「人の命をなんだと思ってるっ!」
「人だと?」
バッツドルフは眉を上げた。
「人とは貴族のことを言うんだ。貴様らは働きアリも同然。いや、貴様は余所者だから単なる虫けらだ。虫の一匹や二匹殺したところでなんだと言うんだ?」
再び激昂したルッツよりも先に口を開いた人物がいた。
「人でなしの犯罪者だって言うんだよ、世間ではな」
「誰だっ!?」
バッツドルフは目を剥いて声の方へと振り返る。
部屋の隅に、腕を組んで壁にもたれている人物を見てルッツは声を上げた。
「マスター!?」
「ルッツ、頑張ったな。御苦労さん」
恭一が軽く笑って指を動かすと、それまでルッツを痛めつけるように抑えつけていた男たちが不自然に固まった。ルッツ自身の怪我の痛みもみるみる薄れていく。ルッツは体中から力が抜けるほどほっとしてしまった。
恭一は基本的に面倒くさがり屋だし気分屋だが、ルッツにとって絶対的に信頼できる、守ってくれる保護者なのである。
我に返ったバッツドルフは声を上げる。
「誰かこの侵入者を捕まえろ!」
「無理だぞ。この屋敷の人間、今みんなお休み中だ」
恭一が軽くキーを叩くしぐさをすると、部屋の中にいた人間が次々と倒れて込み、安らかな寝息を立て出した。バッツドルフの顔色が変わる。
「貴様、一体何者だ!? どうやってここに入った!」
恭一はとぼけた顔で肩をすくめる。
「どうやってっていうか、俺は最初からこの部屋にいたよ」
「なんだと!?」
恭一の言葉にバッツドルフばかりかルッツも驚愕した。
「マスター、じゃあどうして……!」
ルッツが抗議を込めた声を上げると、恭一はにやりと笑った。
「俺の国には問うに落ちずに語るに落ちるって諺があるんだ。人間、聞かれた時には秘密は漏らさないもんだが、自分から喋るときにはぼろぼろ秘密を喋っちまうもんだっつー意味。まして、死人に口なしって思ってる奴は冥土の土産とばかりにべらべら喋る」
恭一の言葉をバッツドルフは鼻で笑った。
「話にならんな。こんな場所での話が世間に認められるとでも思うか? 貴様らは私の屋敷に押し入った賊だ。私が言えば、貴様らは罪人として裁かれる。あのトニとかいう男と同じようにな!」
「まあ普通ならそうだろうな。あんたは権力者で、俺たちは単なる平民で余所者だ。正攻法じゃ無理だし、暴力に頼るのも無理だって知ってるよ」
言いながら、恭一はゆっくりと歩き、カーテンの掛かった窓際へと歩み寄ると、バッツドルフと向き合って不敵に笑った。
「サム・ロススティーン曰く、やり方は三つしかない。正しいやり方。間違ったやり方。そして俺のやり方だ、ってな」
そう言うと、恭一はカーテンを掴んだ。
「余所者の俺の言葉は信用されないだろう。だが、あんた自身の言葉はどうだろうな!?」
ばっと恭一がカーテンを開ける。
窓の外から差してくる強烈な光に、部屋の中にいた人間は一瞬皆目がくらんだ。
しばらくのち目が慣れてきたバッツドルフはようやく窓の外の光景を確認し、やがて状況を理解すると顔色を失った。
日は沈んだというのに、窓の外は昼間のように明るかった。
その光源はバッツドルフの屋敷の庭の上空にあった。魔法によって、数十メートルはあろうかと言う巨大なスクリーンが生じていた。そこには今まさに、部屋の中で顔をゆがめて外を睨みつけているバッツドルフが映っている。
スクリーンの下には、街の人間らしき大勢の人間が詰めかけてそれを見ていた。
恭一は楽しげに言う。
「この屋敷にはあらかじめ外の音が入らないよう防音結界を張っておいた。あんたがルッツにしたこと、喋ったこと、最初から全部音声付映像でここら一帯どころか隣の町でも見聞きできるくらいの規模で中継してたんだ」
もちろんこれは恭一の有り余る魔力があってこそ成立する方法である。
バッツドルフはあまりのことに言葉を失っていた。
「さて、あんたが自分の悪事を語ったことは多くの人間が目撃した。ルッツに暴力振るったことも、殺して毛皮にしようとしたことも見てる。今から素直に白状して出頭するか、ひっ捕らえられるか、どっちがいい?」
恭一が意地悪く尋ねると、バッツドルフは口角に泡を飛ばしながら喚いた。
「へ、へ、平民風情が、この程度でいい気になるな! き、貴様らの言葉など、私の信頼を前にすれば妄言もいいところだ! いくら平民どもが証言したところで、こんなもの……!」
「ところがどっこい、こちらの方にも見て頂いているんだなぁ」
恭一がパチンと指を鳴らすと、部屋の中央に小さめのホログラム風映像が映し出された。
そこには執務室らしい部屋でしかつめらしい顔をした壮年の男性が座っている。
ただでさえ悪かったバッツドルフの顔色が、かの男性が誰か分かった途端、もはや白を通り越して土気色となったかと思うと、ずるずると床へと崩れ落ちた。
「領主様……」
バッツドルフの絶望に満ちた呟きが部屋の中に響いた。
その日、地方領主として長らく務めていたバッツドルフ家の取りつぶしが決まったのだった。
***
さて、それから事後処理もあったので恭一はルッツを街に置いて、あちらこちらを走り回る羽目となった。落ち着いてドラドでトニたちと酒を飲み交わしたのは数日後のことだった。
店内は一時貸し切りとなり、恭一たち素材屋と、トニ、エルフリードがテーブルを囲む。ザシャは厨房と給仕である。
「じゃあマスターは、あの男が僕を狙ってるって分かってて囮にしたんですか!?」
「ああ」
ルッツの批難交じりの言葉を、恭一はいけしゃあしゃあと肯定した。
「本当はもっと安全にしようと思ってたんだが、説明をする前にお前が飛び出して行っちまったからな。連れ戻すよりも先に他に根回しとか下準備をしておくことにした。お前が予想以上にいい仕事してくれたから助かったよ」
あっけらかんと言う恭一に、ルッツはわなわなと震える。
恭一は続けた。
「あの地主、装飾品が違法なもんばっかでさ。宝飾品に使ってた宝石は国際倫理法で禁止にされてる人魚の目玉だったし、ベストには稀少保護種パパガイ族の風切り羽。皮靴も絶滅危惧種ロートアイデクセの革。最初に会った時、ルッツを見たときの目がおかしかったし、白昼堂々暗殺者差し向けるようなおっさんがまともな倫理観持ってるわけがないと踏んでたんだ。見てみりゃ屋敷の中にもそういった違法なもんがごろごろしてたしな」
恭一の言葉に、ルッツばかりでなく一緒にテーブルを囲んでいたエルフリードも体を震わせる。そんな凶悪な男に一歩間違えれば手籠めにされそうになっていたのだ。
「さすがキョイチさんは素材屋だけありますね〜。見ただけで分かるなんてすごいです〜」
呑気に誉めるのはトニだけだ。
「ま、職業病だな」
恭一は肩をすくめた。
実をいうなら一度はコレクションに欲しいと思った素材なのだが、採取のために亜人を殺すのは彼の倫理観に反したので諦めたのだ。恭一はマッドコレクターではない。
「あの魔法はとても大がかりでしたけれど、領主様とはどこでお知り合いに?」
話題を変えようとエルフリードが尋ねると、恭一は苦笑を洩らした。
「実はあの日が初対面だったんだ。ただ、そこそこ地位のある地主と知り合いだったから、その人に無理言って面会勝ち取ったんだよ」
恭一の言葉にトニがぽんと手を打つ。
「この前言ってたコレクションと杖を引き換えにした人ですよね〜?」
「ご明察」
恭一は片目をつぶる。
「杖を返してやるから領主と話をさせろって交渉したら、一も二もなく了承してくれたよ」
「そりゃまあそうでしょうね」
ルッツが呆れて呟いた。バレたら首が飛ぶと先日聞いたばかりである。さぞや必死に領主とコンタクトを取ってくれたことだろう。実際、かの地主は己の持てる限りの知識と弁舌を持って領主を説得してくれたのだが。
正直に言ってしまえば、バッツドルフはあの場でもとぼけることができた。領主や外の人間が見えた光景が、恭一が魔法で作りだした光景だと言い張ってしまえばよかったわけである。が、リアルタイムで領主からの通信が入ったことにより、バッツドルフは心が折れ、観念した。止めの一手となる領主とのコンタクトが取れなければ、今回の作戦の成功は難しかっただろう。
「あとは新しい人材がまともな人間であることを祈るばかりだな」
恭一は肉を口に放り込みながら言う。こればかりは国の上層部の意向だから、一般人が口出しできる問題でもない。
「でもこれで一安心ね。トニさんの無実も証明できたし、これからは堂々と暮らせるじゃない」
エルフリードが満面の笑みを浮かべる。ここしばらく彼女を煩わせていた心配事がようやく片付いたのだ。晴れやかにもなろうというものだ。
「これからはまともなところに住めるだろうし仕事だって引く手あまたでしょ? なんだったら次の仕事が決まるまでうちで暮らせばいいんじゃない? トニさんにはお世話になったし」
エルフリードが顔を赤らめながらトニに言う。軽い風を装っているが、彼女が恋心を持ってそういった打診をしていることはかすかに震える手やうるんだ瞳から明明白白である。恭一は一人ブロークンハートになっていた。彼は惚れっぽい。そして失恋しやすい。
が、トニは穏やかな表情で首を横に振った。
「いいえ〜。お気持ちはありがたいんですが、僕はちょっと違う街へ行ってみようと思ってるんです〜。武者修行といいますか〜、見聞を広めようと思って〜」
「えっ……!」
エルフリードが驚愕に目を見開く。驚いたのは恭一たちも同じだった。
「トニさん、この街から離れたくないからバッツドルフのところで働いてたんじゃないんですか? せっかく悪い奴もいなくなったのに」
ルッツの言に、トニは軽く微笑んだ。
「もちろん、いずれはこの街に帰ってくるつもりですよ〜。でもだからこそ、今じゃないと外には行けないかな〜、と思いまして〜」
そこでトニは言葉を切る。柔和な顔だが、決意は固そうである。
建前っぽいな、と恭一は思った。トニの立場になって考えてみれば、バッツドルフのことが解決したからこそ、しばらくは居心地の悪さを感じることになるだろうと予想できた。
トニはもとよりこの街の人間と仲が良かったという。友達と言わずとも交流が会った人は多かったろう。それが例の冤罪を機に一変した。見て見ぬふりをした人、知らずに迫害した人、便乗して迫害した人、見ていることしかできなかった人。全くの他人ばかりならば違ったろう。彼らの間に長い時間をかけて築き上げていた関係が一度無残に壊れてしまったからこそ溝が残るはずである。
まあトニなら許しそうだけど、と恭一は一人心中でごちる。だが加害者側はどうだろう。被害者ぶるか、あるいは己の良心の呵責に苦しめられるか。逆恨みする人間だっているかもしれない。いずれにせよ、あまり見たくない光景だ。時薬が一番効くだろう。
「ならさ、トニ。俺んとこ来ないか?」
「はい? キョイチさんのとこですか〜?」
トニがきょとんとした顔で首をかしげる。
「ああ。俺は王都の方で店を構えてるんだけど、魔法使った書類は駄目とかで決算処理が大変でさ。数字に強い人間がいたらなーって話をしてたんだよ。それに顧客は世界中にいるから税法や税関処理の知識が必要だし、商品や現金の出納が激しい商売だ。国越えての取引も多いから収支の計算もややこしいしな。財務士の一人もいりゃ捗る。住み込みになるが住居はこっちで用意するし、休日に里帰りしたけりゃ魔法で届けてやる。給料は弾むぞ?」
恭一がにやりと笑って言うと、トニは目を丸くした後に破顔した。
「楽しそうですね〜。そのお話、お受けします〜」
「そ、そんなトニさん……!」
エルフリードが焦って声を上げるが、トニは微笑むだけで考えを翻す様子はない。
「決まりだな。よろしく、トニ」
恭一はトニと握手を交わした。
今にも泣きそうな顔をしているエルフリードの背中を、厨房から出てきていたザシャが叩いた。彼を見返す姉に、無言で首を振る。
「トニさん、戻ってくるんだよね?」
ザシャの真剣な問いに、トニは感情を読ませぬ微笑を浮かべた。
「ええ、いずれは」
「なら今はそれでいい」
それが嘘でも、という言葉が聞こえた気がした。
***
さて、思い立ったが吉日とは言うが、トニが素材屋に引っ越しを終えたのはその翌日のことだった。恭一の店で働くと決まった日の夜には送別会が開かれ、翌日には荷造りを終えて恭一の魔法で移動し、王都の市場で一通り必要なものも買い揃えてしまった。
ちなみに住居は素材屋の二階である。素材屋は一階が店と台所や風呂などの共有スペース、地階が倉庫と恭一のコレクション部屋、二階がルッツとトニの部屋で三階が恭一の部屋となっている。
トニの歓迎会と称して馴染みの店で食事をし、その翌日には仕事についての話を始めていた。
「――ざっと見た感じですが、この量だと役所に必要書類を追加発行してもらう必要がありますね〜」
書類の検分を終えたトニが言う。彼の手元の帳面は、すでに几帳面な字が何ページにも渡って書き込まれている。
「今の時期からか?」
「はい。現状貰っている枚数じゃあ明らかに足りませんし、早めにしないと年末は駆け込み需要でなかなかもらえないんですよ〜。何せこの書類専門の工場での手刷りですからね〜」
「なるほど」
「というわけで、役所に申請しに行きましょ〜。初回は社印とお店の許可証が必要ですのでキョイチさんも同行お願いします〜」
「分かった」
普段のおっとりぶりが嘘のようなテキパキとした働きぶりである。恭一は内心で舌を巻いた。
が、彼が真に驚愕するのはこのすぐ後のことであった。
役所を訪れたトニは、必要書類を一式揃えてささっと記入していく。
「後はこれを窓口に出すんです〜」
「手際がいいな」
恭一は感心した。彼が日本において市役所に行ったのは引越しの時と住民票を取り寄せる時ぐらいなものだったが、この世界においての市役所の書類はそれの比ではないくらいに面倒くさい。記載事項が細かいのである。店を開店する時はそれはもう苦労した。それを迷いなく記入するトニは、間違いなく素材屋にとっての救世主である。
「すみませ〜ん。年末の決算書類の追加請求をお願いします〜」
「はい、書類をお預かりします」
以前に恭一が訪れた時は仏頂面だった事務の女性は、トニの顔を見てとても愛想よく対応している。美形は得である、と恭一はやさぐれた気分になった。
事務の女性は書類を検分する。
「――次回以降は代理人の方が申請されるんですね。財務士資格をお持ちとのことですね」
「はい」
トニがバッチのようなものを見せる。財務士の証らしい。
「ええと、お名前が――トニ・ツヴァイク!?」
書類に目を走らせていた女性が大きな声を上げた。
途端に、ただでさえチラチラとトニの顔を見ていた女性がいたと言うのに、その声によって周囲にいたほとんどの人間がトニへと視線を向けた。
「あの、トニ・ツヴァイク!?」
「嘘、本物!?」
他の席にいた事務員たちもカウンターにすっ飛んでくる。彼らがトニに向ける視線は称賛と畏敬の念がこもっている。
衆目の注目を浴びても、トニはのほほんとしたままである。
「と、トニってそんなに有名人なのか?」
今にも握手やサインを求めてきそうな周囲の人間に驚いた恭一が尋ねると、それに答えたのはトニではなく事務の女性だった。彼女は驚きと非難をあらわにして言う。
「ご存じなくトニ・ツヴァイクを雇われたんですか!? 彼は財務士試験史上初の、最年少二十四歳で初受験にして一発合格を成し遂げた財務の申し子と言われているんですよ!?」
財務の申し子ってすげえ表現だ、と思いながらも恭一は首をひねる。
「ちなみに財務士の平均的な合格年齢っていくつぐらいなんだ?」
「平均四十歳です。合格までの受験回数は平均で五回と言われています」
「マジか」
恭一は絶句した。日本における会計士や司法試験を超える難関試験らしい。特別国家公務員か、むしろそこまで来ると本当に中国の科挙のイメージだ。
そしてふと思い当って尋ねる。
「っつーことは、トニってもしかして今二十六歳?」
「いえ、今は二十七歳ですよ〜」
「……童顔だな」
「良く言われます〜」
てっきり二十代前半だと思っていたばっかりに思いっきりため口を使っていた恭一だったが、トニは思っていた以上に年上だった。内心でしまったと思った恭一だったが、今更口調を変えるのもなんなので、そのまま貫くことにする。
なるほど、見た目以上に優秀だとは思っていたがそれもそのはずである。能ある鷹は爪を隠すということだ。恭一はほとほと感心した。
「ツヴァイクさん、も、もしよろしければご指導など賜れませんか? あ、いえ、何か講演だけでも……!」
役所の奥からすっ飛んできた重役風の男がカウンターから身を乗り出しながら言う。かなり必死である。
「う〜ん、僕はあまり人に教えるのは得意ではありませんから〜。マイペースですし〜」
トニは柔らかい口調ではあるがきっぱりと断る。
「そこをなんとか……! ちょっとお話だけでも! ここのところ王都でも財務士試験を目指す若者が減っておりまして、つきましては最年少合格を成し遂げたツヴァイクさんに若者たちを鼓舞していただきたく……!」
さらに鬼気迫った様子で食い下がる男にトニが眉をハの時にする。
「僕の雇用主はキョイチさんですから〜。まずは自分の仕事をきっちりこなしたいんですよ〜。申し訳ありませんが、お話は受けられませんね〜」
笑顔だが引かないトニである。
トニぱねぇ、と恭一は別の意味で感心した。
雇用主、という言葉で男が俄然恭一に顔を向けて来た。若干血走った眼に恭一は軽く引いた。
「あなたは確か素材屋の。あなたからもぜひ――」
「当人が嫌がってることを無理やりさせるつもりはないんで」
異世界に来てから図太くなった恭一もきっぱりと男の要望を切り捨てる。男はがっくりうなだれた。
けれどものろのろと上げた顔はまだ諦めきっていないようで、嫌な予感がした恭一は事務員の女性を急かして早々に手続きを進め、逃げるように役所を後にしたのであった。
そして彼の予感は当たり、トニのストーカーが素材屋の近辺をうろつくようになって恭一が根を上げるのは割とすぐのことだった。
余談だが、恭一のお願いに負けて若者向けの財務士講座を開いたトニは、そんじゃそこらの財務士には理解できないハイレベルで高密度な内容を披露したことにより、自己申告の教え下手とマイペースを見事に証明した。全三回の講義に付いてこれた者は皆無だったという。
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